理系人材のための美術館のススメ【第8回】
第8回「オリジナルと複製の攻防」
美術館にあまり足を運ばない方向け、「理系業界に美術館のご利用をプッシュしてみよう」という本コラム。
さて前々回にあたる第6回で、筆者は「デジタル美術館なんてものがあるようなこのご時世でも、オーラを放つ現物を見に行くのはやっぱりいいと思うの」…という、ぱっと聞きでは実に適当な、ほぼ「個人の感想です」的オススメをここでしました。が、自分でもこの時の話は、ちょっともやっとしたのです。
今回の話は、この業界の方が仕事でもよくぶちあたる「原本」の話。デジタル技術が進む中で、だんだんと曖昧になってきてしまったオリジナルの話を、第6回の補足という感じでお読みください。
【オリジナルってなんだっけ】
生データ、または書類原本の確認。
…という作業は、仕事をしていれば、関わり合いがまったくない方などいないのではないかと思います。印鑑って、押印自体に意味あるのかと思いつつも、原本確認にはとっても便利でしたよね。サイン確認し辛いから青ペン使ってくれという要請も以前はけっこうありました。それくらいにオリジナルの存在というのは、一般の作業でもリアルに重みのあるものでした。
それがまあ、DXとも言えないただの電子化を前に、こんちくしょうめと思うこと多々のこのご時世(ていうか経理もちょっと前まであんなに領収書領収書って言ったのに、電帳法は大手以外絶対実施が遅れると思う…!)。オリジナル原本・コピー・電子版の混在はもはや奇々怪々の様相です。さらに電子版が原本という扱いは、いまだに頭の中で整理が困難です、10年後にそのタイムスタンプの正当性をどう判断するんだか分からぬ…。
しかしてこの展開は、美術品でもまったく同じルートをたどります。
近美にあるような油絵を前に、オリジナル現物の話をするなら、なんの問題もありません。五十年前の契約書の話をするのと同じで、「贋作やレプリカではない」ことを確かめるくらいの話です。
でも油絵ではなく「版画」が普及しはじめて、一気に話は難しくなりました。ほら、作品の下にエディションナンバーが入っていて、フチに「1/50」なんて書いてある版画、目にする機会はけっこうありますよね。
版画は、版下を作り、刷ってなんぼです。そして「刷る」というのは、そもそも同じものを複数作る際にこそ取る手段です。つまりはコピー。
ええ、本邦が誇る葛飾北斎だって歌川国芳だって広重だって写楽だって、版画です。だから人気絵師の絵は摺師さんによって今もなお「復刻版」として摺られているわけで…
…しかして、版画のオリジナルとはなんぞや。
【版画がもつアイデンティティ】
昨今、木版をどのくらい小学校でやるのか定かではないですが、版画といったら基本、あの懐かしの彫刻刀とバレンのイメージですよね。石でも木でも紙でも銅板でも使っていいし、彫刻刀の代わりに何で線を描くかはそれぞれですが、とどのつまり版下をつくることに変わりはありません。
筆で直接描くこと(肉筆画)に比べたら、版画というのは明白なまでに手間のかかる工程を経ます。その代わり、一度作った版下はかなりの時間使うことができます。10枚しか刷らなかったけど、10年後にもう10枚刷ってもOK。逆に言えば、それこそが版下作成の意味であり、これは技術的に作者自身がいなくなっても同じです。
となると、なんとなく「オリジナル版画っていうのは、作者自身(または公認)で刷ったその版だろう」という気がするじゃないですか? しかし版画でおそろしいのはその枚数。
特に浮世絵の場合、有名絵師なら何百~何千と摺りましたし、名前は入ってもエディションなんか入っていません。正直、オリジナルもなにもないような枚数がわらわら出回ります。
そもそも浮世絵師は、琳派の絵師のように「芸術」を語ったわけではありません。希少性なんか求めちゃいない、仕事人です。一人で作品を作ることはないし、彫師さんや摺師さんもプロですから、注文が来れば大量に摺りました。一枚一枚は当然安いけど、大量に摺れることが浮世絵のアイデンティティであり、そのアイデンティティこそが、海外含め、多くの人に影響を与える結果に繋がってくれたわけですよ。おかげで、日本、アメリカ、ヨーロッパの各所にオリジナルの「神奈川沖浪裏」が存在してくれているのです、わーい。
要は、ここでいうオリジナルに「原本」の意味はないのです(「絵師が書いた版下の絵」は一枚しかないという点で原本っぽさを感じますが、これは最初の彫師さんの手元で木屑になる運命です)。
だからどんなに評価されても人気があっても、浮世絵の価格というのはさした金額にはなりません。今なお復刻版が刷られる浮世絵は、数が多すぎるのです。
個人的には、この市場価格を抜きにすれば、版画作品が持つ美術的な価値は、何版刷ろうと変わることはないと思います(色や線が劣化するB品を除く)。だって版画って、そういうものだから。骨董趣味で古い時代のものが欲しいということはあっても、あえてオリジナルにこだわる必要はない作品じゃないかな、と思います。
【だってみんなが欲しいというから】
この版下という便利な代物ですが、ここまでのイメージだと「版下のある版画だからこそ枚数が刷れる」気がします。油彩や水彩なら話が違うようにも思えますが、そんなことはありません。油彩も水彩も、オリジナル作品から版下を作って刷るということは可能です。印刷技術万歳。
このため「準オリジナル」なんて規格があって、
● 作者じゃないけど技術のしっかりした有名版画工房の版画職人が作ったよ。
● ちゃんと作者が生前に、作ることを了解してくれたよ。
● サイン入れてくれたよ。
この条件を満たせば、「もうこれほぼほぼオリジナルと言ってもいいでしょ!」…というわけで、準オリジナルのできあがりです! やっぱりいっぱい刷ったほうが、人気は出ますからね! みんな大好きシャガール先生は、版画がいっぱいです!
そして同じ工程を経ているけれど、作者がすでに亡くなり、本人や遺族の了承が取れていないものをエスタンプ(複製)といいます。とはいえ「エスタンプだけど、技術がしっかりした有名版画工房の版画職人が作ったんだからね!」という点を譲らなければ、問題はサインだけで、モノとしては準オリジナルと同じということになりますね。
…もうお気づきだと思いますが、ここまでくると、話は売る側と買う側の市場の理屈のほうが強くなります。ある程度刷れば、影響力は出るし名前も売れる。有名画家といえども一点だけのオリジナルを売るより刷ったほうが遥かに儲かる。ただ、価格を維持する限度がある。
だいたい一点だけのオリジナル油彩なんて、美術館がつぶれるかコレクターが手放さない限り市場には出てきません。所在不明というケースだってある、しかし欲しいという人間はいっぱいいるのですから、技術的には刷れば解決。作品の芸術性だとかは横に置き、まず刷る数と保証が大事です。エスタンプなら、億でも手に入らない絵画が数十万円で手に入る、しかもそうはいってもこれ「技術がしっかりした有名版画工房の版画職人が(以下略)」なので大丈夫よって言えば万事OKなんですよ、これが!
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