理系人材のための美術館のススメ【第3回】
第3回「現代美術が教えてくれること」
美術館にあまり足を運ばない方向け、「理系業界に美術館のご利用をプッシュしてみよう」という本コラム。前回はまず「わあ、いかにも美術館!」…という感じの散歩先をお勧めしました。もっと趣味的な皿とかガラスとか茶器とかには専門美術館もあるわけですが、とりあえず公立美術館なら、そういう範囲も含めてくれているので、自分の好みもはかれようというものです。
しかして3回目は、最近公立美術館によく並ぶ、かの「現代美術」について。
前回お話ししたように、自前で作品を持っている美術館の中には「現代美術」をメインに収集している場所もあり、美術館をぶらっと巡っていてこれらに出会う頻度もかなり高くなってきています。
まああたりまえといえばあたりまえの話で、現代美術はだいたい第二次大戦後以降に作られた「現代」の作品を指すことになっており、昨日制作されたもの明日できあがるものも含むわけですが、現代美術じゃないものは、もはや増えることはありません。コレクターが亡くなって秘蔵物が市場に出てきた!とか、戦争で見つからなくなった作品が発見された!とかいうことはあっても、増殖はしません。つまり美術館同士だって国レベルで争奪戦になってしまい、もうそうそう手が出ない。
そんなわけで収集できるものは現代美術が多くなってきて、マーケットになっていき、若手も参入し、きらぼしのような才能も登場し、作品数としては今後ますます増えていく…という次第なのですが、…これ、ほんとに、ほんッとに付き合い方によっては厄介だと思うのです。
【みなさまが去年の夏に見たアレ】
増殖しているにも関わらず、Googleさんで「現代美術」を検索すると、予測される次の検索候補に「わからない」が登場してくるくらいに世で「わからん」とされているのも現代美術です。
このあたりは、現代美術が「現代の作品」という時代的な意味だけでなく、「コンセプチュアル・アート」または「インスタレーション」という絵画でも彫刻でもない、それまでの既存の芸術から離れたジャンルを内包してしまったことがやっぱり大きいんだと思います。
コンセプチュアルってほらアレですよ、「私が世界を旅する中でいっこいっこ拾った廃棄物を積み上げた塔」とか「大都市で定点撮影した人々の動きを投影した光のアート」とか、なんかそういうたぐいの「コンセプト」がくっついて語られるやつで、インスタレーションはこの類を空間ごと使って作ったり塗ったり踊ったり音を出したりしちゃう、某五輪開会式みたいなやつです。
群像だとか憧憬だとか時間の流れだとか、孤独だとか焦燥だとかまあ概念的なものを「私はこういうコンセプトで作品にした!」的なアレ。解説がたった今生存している作者ご当人になるために、解説のかくかくしかじかが長いアレ。N〇Kのアナウンサーが「この光の点は○○を表現しているそうです!」とか、伝聞推定でテキトーに省略して説明したせいで、余計に意味不明になった某五輪開会式のアレ。
おそらくですが「現代美術なんか分からない」という人だって、「日本画で使う岩絵の具と銀箔を使って、今の街中で出会える花鳥を描いているんです」・・という現代日本画作家相手だったら、さっぱり分からんとは言わないのです。うん鳥と花だね、と言えます。日本画も洋画も立体作品も、素材や画材が変わって面白い効果を出せるようになっていますが、分からないと言われるのはこういうのじゃなく、インスタレーションおよびコンセプチュアル・アートなのだと思います。
まあ世界的な賞賛が飛ぶのも、とんでもない値がつくのも、ゆえに話題になるのもこれらのほうなので、この構図は致し方なし。
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