細胞加工施設を運用するキャリアの謎【第5回】

ここまで回数を重ねると、もう前書きはいらないのかなという気もするが、一応このコラムは「現状、細胞培養加工施設と呼ばれるハードウエアに関わることが多く、専門分野を問われた際には、僭越ながら再生医療系の施設・製造管理と答えさせていただいている著者による再生医療分野のキャリア的な話」である。
 どっこい、私自身が出自文系だったりするものだから、ついに噛ませ程度に書いていた哲学の話について「そこんとこもうちょっと詳しく」というリクエストをいただいてしまった。そんなわけで今回は、哲学の話です。今回もまた、人生においてなんの役にも立ちません。読み飛ばしても次回以降なんの支障もないと思います(次回読んでいただく場合の話ですが)。

▽哲学って、別に役には立たない
 さて、前述の「なんの役にも立たない」というのは別に私が哲学に暴言を吐いているわけではなく、私の在学当時、倫理学を教えてくれたカント倫理学の大家とされた先生の言による。彼は飲み会で飲みまくって酔っ払った挙句、なぜか半泣きで「哲学なんてなんの役に立つんだろう」とこぼしていたのだが(彼に一体なにがあったかは、本人が後日記憶をなくしていたので誰も知らない)、これに隣に座っていた論理学の教授はにっこり笑って「どうして役に立たなければいけないんですか?」とさらに酒をすすめた、という実話エピソードである。相手は泣いているというのに「役に立つこともあるよ!」とは言わなかった我が師は偉いなあと、改めて感銘を受ける。
 だって「仕事」が役に立たなければいけない理由なら、報酬をもらえないからという明白な答えがあるけれど、「学問」が役に立たなければいけない理由は、確かにどこをどう転がしても出てこない。実際、その時泣いている倫理学の先生に「こんな役に立つ!」と答えられた人間は誰もいなかったし(デカルトとガリレオが機械論的世界観で中世を変えたのだ!とか言っても、それは振り返ってみればそうまとめられる、という話で、ガリレオが言わなきゃ時代の流れとともに他の人がそうまとめたでしょう)、私自身、そうですねなんの役にも立たないですよね、と思いながら、まあ楽しいからなあ、と思っていたのが実際のところだった。
 そもそも哲学というのは、古代ギリシャにおける発生当初からして「遊び」の延長線にある。よく子どもが、なんで、どうして、とやかましく親に問い続ける内容を、そのまま真剣につきつめるのが、人生の遊びでなくてなんだろう。古代ギリシャ人は労働を奴隷に任せて働かなかったとはいえ、戦争したり政治をしたりはしていたし、闘病やら子育てでてんてこ舞いの人だって勿論いただろう。なのにそれをよそに「私がここにいるのは一体なぜなのか?」を延々考え続けるなど、普通に考えれば非常にダメで不健全と言わざるを得ず、おそらく一部では不真面目扱いされる人もいたはずだ。
 なんで、どうして、なんのために?とプリミティブな疑問をこねくり回すこと自体は責めることではないし、本人たちは「哲学的思索こそ高貴な生き方!」と胸を張っていたようだが、ぶっちゃけものには程度というものがあり、食うに困る人生の崖っぷちに立った時、「自然数「1」とは何か、なぜ人間はそれを認識できるのか?」と考えるヤツは一体生物としてどうなのか、という話である。
 哲学的諸問題というのは、やはり優雅(=暇)な人間の高貴な遊びだ。だいたい優雅(=暇)じゃなければ「針の上で天使は何人踊れるか」なんて言い出すわけがないのである(厳密にはこれは神学だが)。
 さらに、たとえ遊びの果てにその答えが分かったところで、実は特に結果に変わりはないのだ。今日天啓がひらめき、世界の秘密を一瞬で理解したとしても、明日の朝は明日にならないと来ず、さらに「我々がここにいるのは一体なぜなのか?って延々考えてやっと分かったんだけど、どうも我々がここにいることに大した意味はないみたいよ」…なんてもし明白にわかってしまったらむしろ悲劇だし、多分人間はその結論をなかったことにして、また思索をするだろう。だからこれら問いはある意味不要で不毛だし、現代において「それがなんの役に立つのだ」と言われればいやもう、一切の役には立ちませんと答える他はない。

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